台東区の子供達が象を贈ってほしいとネール首相に想像で描いた象の絵を送る。耳が小さかったり、鼻が短かったりした象の絵を見て、首相は日本の子供達に象を贈る事を決めた。しかし、そこに至るまでの廃虚の下町で強い意志と行動力を持った子供達を支えていった戦後の大人達の姿があった。ドラマはどのようにして起ったのか知りたい方は、以下の台東区史に記載された文章をお読み下さい。


下記本文中でネール首相から日本の子供たちに送られたメッセージはこちらをご覧下さい。



上野動物園でのインディラ象と故ネルー首相 父・娘





第五節 象のインディラと子供議会など


 戦争が激しくなった昭和十八年八月、上野動物園にいた猛獣類は、脱走の恐れがあり、危険であるとして、軍の命令により、ライオン、豹、虎、ニシキヘビなど十四種類二四頭が処分された。この中に二頭の象がいた。
 戦後の上野動物園は、象やライオンのいない動物園であった。かつての象舎には豚が飼われていて、まるで家畜園であった。
 そんな時期に、台東区子供議会は「上野動物園に象がほしい」と決議し、ついにはインドのネール首相をも動かして、上野の山に「インディラ」(象の名)を迎えることができたのであった。
 まだ街のあちこちには焼跡が残り、人びとは食糧難に苦しんでいた時代であったが、台東区の子供達のこの快挙は、子供達にとっては大きな希望の光となり、暗い世相に明るい話題をなげかけ、日本の社会も、国をあげて喜んだのであった。

 「上野に象がほしい」子供議会が議決
 戦後の新しい民主主義教育の一つに「子供議会」という学習活動があった。これは子供達の手で身近な問題を解決していこうとする自治会活動のようなもので、国会や地方議会を模倣して討論会や決議をして、社会に訴えたのであった。
 台東区には、子供議会(小学校五、六年生から各校一名)と少年議会(中学生)が置かれ、昭和二十三年から同二十五年まで存在していた。
 昭和二十四年五月一日開会の台東区子供議会は「上野動物園に象がほしい。名古屋から本物の象を借りてこよう」と決議した。
 上野動物園にいた二頭の象は、昭和十八年八月、戦時中の猛獣等の処分命令により、処分されていた。戦後、日本に残っていた象は三頭であった。京都の一頭は戦後すぐに死んでしまい、名古屋市東山動物園の二頭が残っていた。その二頭のうちの一頭を上野動物園に借りて来ようというのである。
 この運動のヒントとなったのは、新聞への投書からであった。
 「この“象借入れ問題”の発端というのは、昭和二十四年三月六日の『東京日日・毎日小学生新聞』に小学校三年生の近藤晃一君という子の手紙が掲載されていることから始まっています。“ぼくのいもうとは、ぞうをしりません。なんとかして買ってください”と十円の為替を入れた手紙を上野動物園の古賀園長に送ったことが報道されたからです」(「動物園に象がいなかった日」厚田尚子『婦人公論』昭和五十六年・六)
 子供達にとっては、動物園は楽しいところである。上野動物園では少ない動物を動員して、昭和二十三年四月には子供動物園を開設。「お猿電車」に人気を集めていたのもこの頃であった。戦後も間もない食糧難の時代であったが、動物園は唯一の遊び場所で、年間八万人の入場者で賑わっていた。

 象を借りよう
 名古屋から象を借りて来よう。子供議会の議決に基づき、早速、代表二名が選ばれた。議長の大畑敏樹君と副議長の厚田尚子さんである。
 昭和二十四年五月四日午後十時二十分、東京発の大阪行きの夜行列車で、百数十名の級友に見送られて二人は発っていった。翌五日午前五時五十五分名古屋着。新幹線のない時代の名古屋行きである。
 同日午前十時から名古屋市子供議会が市役所で開かれた。二人は代わるがわる、東京の子供達が本物の象を見たいことと、東山動物園の象を一時的に借りたいと訴えた。名古屋側の子供議員からも活発な意見が出された。結論は、同情はするが、東京の友達だけに貸すわけにはいかない。だからといって、名古屋だけで独占するのもよくない。議会は意見が分かれて、今後の態度は議長一任で散会してしまった。
 使命をおびてやって来た二人は、何とかよい回答を得ようと、同日午後、東山動物園へ。まず二頭の象を見学した。大きい。思っていたよりも実物はずーっと大きいので二人は驚くばかりであった。象はエルド(四四歳)、マカニー(五二歳)といい、ともに牝で、高齢ではあるがもともとサーカスにいたので芸達者で動物園の人気者であった。二人は象の背に乗せてもらい、園内を散歩した。思いもよらないプレゼントに二人は大喜びであった。しかし、北王英一園長に象の借入れをお願いしたが、象自体が高齢な上、輸送が難しいこと、一頭だけというが、長い間、二頭で生活していたのを、引き離すことは不可能なことだという。実際に象の一頭を連れ出して、二人の前で実験した。すると、檻の中に残された一頭が暴れだし、鉄柵に頭突きで血みどろになる騒ぎであった。これではとうてい引き離しは不可能なことがわかった。二人は米持参で一泊の予定。この日はやむなく宿に引き上げた。

 象列車の運行が実現
 翌六日午後一時には、市庁舎に塚本市長を訪問して陳情をした。市長からの回答も同じようなやりとりの繰り返しでラチがあかない。代表の一人、厚田尚子さんが市長の前で「このままでは東京へ帰れない」と泣き出す一幕もあり、市長もこれには「眼鏡をはずしてしばし沈思黙考」(『サン写真新聞』昭和二十四・五・七)するばかりだったという。
 しかし塚本市長は、その場で直ちに、市や動物園、名鉄関係者を集めて象列車の運行を決定したのであった。
 貸すことは出来ないが、その代わりに見に来てもらおう。象列車の運行が決まったので、二人の代表はそれをお土産に七日七時四十分東京駅着で帰って来た。東京駅には見送りの時と同じように子供達が迎え出ていたのであった。

 象列車
 昭和二十四年六月十八日には、国鉄名古屋鉄道管理局で準備した象列車で第一陣がスタートした。彦根市から一四〇〇人が東山動物園へ。同月二十六日には東鉄管内で上野駅、日本交通公社、東京日日新聞社の共催による象列車「エレファント号」が十五両編成、一五〇〇人を乗せて名古屋へと発っている。
 子供達の夢をのせて走った象列車は、この年の秋まで続いた。名古屋に近い大阪、京都方面の子供達が多く参加した。東京からは遠距離すぎて、時間も多くかかるので、すぐに打ち切りになった。結局、象列車は全国から一万数千人の子供達が参加したことになっている。

 国会や東京都へ陳情
 台東区子供議会は、象列車を望んでいたのではなく、あくまでも上野に象をということで、象列車の運行中でも運動を続けた。
 台東区子供議会は、代表が名古屋から帰って間もない五月十日には参議院議院宿谷栄一氏の紹介で、松平参議院議長あてに請願書を提出した。内容を要約すると、国会議員の先生方のお力で、マッカーサー元師を動かして、象をはじめ珍しい動物をアメリカから輸入してほしい、ということである。
 「“国会初めての子供の請願”ということで、宿谷議員は法律的に受理して有効かどうか、当惑されたと聞きます。しかし、松平参議院議長は、たとえ子供にしろ、基本的人権は大人となんら変わらない、請願はきちんと受け取るべきだと、正式に受理されたわけです」(前出同、厚田尚子)
 そして請願は、四日後の五月十四日の参議院厚生委員会で議題として取り上げ審議された。委員会には名古屋へいった二人のほか各区の子供議会から十八名の代表が出席して請願書の趣旨を訴えている。
 “上野に象を”の運動は、この頃になると都内全域の小中学生が加わって、都庁にプラカードを立てて押しかけたり、安井都知事に陳情を繰り返した。

 ネール首相からインディラ贈られる
 このような子供達の運動を知ったインドの貿易商のニヨギ氏は、近く帰国するからネール首相にこの話を伝えて、何とか実現するようお手伝いしましょうと、都民生局を通じて申し出てきた。早速、民生局は、都内の小中学校に呼びかけて、ネール首相宛のお願いの作文や図画一五〇〇点を集めて持っていってもらおうということになった。同年六月三日、上野動物園において、台東区子供議会や黒門小学校、都内の小中学生五〇名が集まり、ニヨギ氏への手渡し式を行いインドへと帰国した。
 六月二十日、朝日新聞は、インド・ニューデリー発の外電で「一五〇〇通のいじらしい童心にうたれたネール首相は“象をみつけることは簡単だが、送り方がむずかしい。一頭の象の輸送方法をいま考えている”と語った」と報じてきた。
 ついに子供達の象に向けたひたむきな運動がはるばる海を越えて、ネール首相の心を動かし一頭の象が上野動物園にやってくることになったのである。
 昭和二十四年七月十六日、連合軍総司令部は象の輸入を許可。同月十八日運輸省は駐日インド代表部、船舶運営会、上野動物園などの関係者と輸送方法について打ち合わせを行う。同月二十五日、台東区子供議会は臨時議会を開いて連合軍総司令部や駐日インド代表部、ネール首相宛におくる感想文を議決、同月三十日、インド・マイソール藩王国の首都バンガロール市で、日本への象の出発式を行う。象は材木運びをしていた十五歳の牝。ネール首相は令嬢のインディラ・ガンジー女史の名前をとって「インディラ」と命名した。
 同年八月二十四日、台東区子供議会は駐日インド代表部を訪れ、ネール首相へお礼の記念品「藤娘」と「娘道成寺」を贈った。
 便船の都合と乗船の港が変更したりして、象のインディラはひと月遅れの八月二十九日にカルカッタを出港した。海路二十四日間の船旅で翌九月二十三日午後三時、芝浦着。ここから動物園までは歩いて行くことになった。交通事情や人だかりを配慮して、深夜の出発となった。同月二十五日午前〇時芝浦を出発、約九キロを歩いて午前二時四十分動物園に到着した。途中、沿道は見物人でいっぱいだった。台東区子供議会のメンバーも待ちきれず、途中の秋葉原駅辺りまで出迎え、象のインディラといっしょに行進してきた。動物園の門前には約一万人の人達が押し寄せていた。インディラは現地を出発して二か月がかりで無事、上野の山に到着したのであった。
 象のインディラ嬢の正式の受領式は昭和二十四年十月一日午前十一時から五万人の入場者で賑わう上野動物園で行われた。
 「当日は駐日印度代表部D・G・ムルハーカー首席代理がネール首相から日本の子供達におくるメッセージと吉田首相あての贈呈状を朗読、これに対して国会と党以外めったに街へ姿をみせたことのない吉田首相がコゲ茶の背広姿で珍しく顔を見せ、ニコニコ顔でお礼のことば(略)を述べ、インディラさんにバナナを食べさせたりした」(『東京毎日新聞』昭和二四・一〇・二)
 このあと日本の子供を代表して、台東区子供議会代表の厚田尚子さんが感謝のことばを述べている。
 こうして象のインディラは、上野動物園の人気者となり、この年の十二月までの三か月間に入場者数がいまだかつてない一〇〇万人近くを数えたのであった。

 もう一つの象物語り
 インディラは、昭和五十八年八月十一日、上野動物園で死んでいる。四九歳であった。
 ここで同時期にタイからやってきた象の「花子」についてふれておく。子供達の“上野に象を”の運動に応えて、マスコミ大手の二社がタイから牝の子象一頭を輸入した。昭和二十四年九月二日神戸港に上陸、二歳半の子象なので、鉄道により汐留へ。同月四日にはインディラよりも一足先に動物園入りし、十日に贈呈式、名前も「ガチャ子」といっていたが、公募により「花子」とつけられた。
 ここで上野の山は、いっきに象が二頭となり、日本中の子供達の人気の的となった。上野の町でも「象まつり」を行って町を上げて歓迎したのであった。『上野繁昌史』によると、まつりではアトラクションとして張子の象を作って、町中を仮装行列とともに練り歩く予定だった。しかし、当日届いた張子の象が余りにも小さすぎたため、上野の空に宣伝のために浮かんでいたアドバルーンを降ろして張子の代わりとし、事なきをえたようである。
 戦後四年を経たばかりの物資不足に悩む日本にあって、台東区子供議会の投じた小さな一石は、二重、三重と大きな輪となって、はるばる海を越えて心と心を結ぶ友情の輪ともなり、暗い世相の中に後世に残る明るい話題となったのである。
 改めて当時を思うと、インドはイギリスから独立して二年余、国内はきわめて困難な状態であった。にもかかわらずネール首相の日本の子供達への温かい心尽くしに対しては、感謝の念にたえない。

 余話 インドの大飢饉に義援金をおくる
 昭和四十年から四十一年にかけて、インドでは大飢饉におそわれ、おおくの国民が食糧難で困っていた。四十一年三月の区町会連合会定例会において、インド飢餓救援の募金を決めた。これは、かつて台東区の子どもたちが中心となって、象の招致運動をしたさいに、ネール首相から象のインディラが贈られた。その恩返しの募金計画であった。
 早速、その翌月の四、五月の二か月を募金の期間とした。動物園のある上野地区は、四月十日に八〇万円を集めて区へ届けてきた。集まった救援募金は総額で三四三万一四〇三円になった。同年五月三十日、区役所で贈呈式が行われ、インド大使館アイ・エス・メーター書記官に手渡された。「江戸っ子の人情でかたい友好の絆が結ばれた」(『台東区民新聞』昭和四一・六・五)。困っている時はお互い様、海を越えての心温まる話である。









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